「離職率が高い会社は問題がある」「優秀な人材は長く勤める」——このような常識的な信念は、今や「嘘」に近くなっています。「離職率」という指標が実態を正確に反映しなくなった時代に、「人材の流動性」という本質的な視点から雇用市場を見直します。長年、企業価値評価・PE投資の現場で「人材」を最重要資産として分析してきた経験から、この問題を考えます。
「離職率」という指標の限界——何を測っていないのか
離職率(年間の退職者数 ÷ 平均従業員数 × 100%)は「組織の安定性・従業員満足度」の代理指標として使われてきました。しかしこの指標には重大な盲点があります。
「なぜ辞めたか」が分からない
「キャリアアップのための転職(前向き退職)」と「職場環境・待遇への不満による退職(後ろ向き退職)」は同じ「離職」として計上されます。30代の優秀なエンジニアが「より大きなチャレンジを求めて」スタートアップに転職した場合も、「パワハラに耐えかねて逃げるように辞めた」場合も、同じ「離職1件」です。
「誰が辞めたか」が分からない
組織の核となる「トップ20%のパフォーマー」が辞めている場合と、「低パフォーマー」が辞めている場合では、組織への影響が全く異なります。「低パフォーマーが辞めてくれている高離職率組織」は、むしろ健全な場合もあります。
「残っている人が本当に満足しているか」が分からない
「辞めたいが辞められない(転職先がない・ローンがある等)」という状態の「不満な在籍者」は離職率に表れません。「低離職率 = 高従業員エンゲージメント」という等式は成り立たないのです。
「35%の離職率」を誇るザッポスの教え——意図的離職の価値
米国のオンライン靴販売会社ザッポス(Amazon傘下)は、かつて「新入社員研修最終日に2,000ドルの退職ボーナスを提示する」という制度で知られていました。「お金のために働きたい人は今すぐ辞めて2,000ドルを受け取れる」というオファーです。
この制度の意図:「本当に会社のカルチャーに共感して働きたい人だけを残す」ことで、組織の質を高める。離職率が高くなっても「残った人の質」が上がれば良い、という発想です。
これは極端な例ですが、「離職率の低さそのものを目的化すること」の危険性を示しています。
日本の「低離職率」の本当の意味——「辞めたいが辞めない」社会
日本の正社員の離職率は欧米より低い傾向にあります(年間4〜5%程度)。これは「日本企業の職場環境が良い」からでしょうか。
「低離職率」の真の要因(日本):
- 終身雇用の習慣と「辞めにくさ」:「一つの会社を辞める」ことへの心理的・社会的ハードル
- 年功序列・退職金への縛り:長く勤めるほど退職金・年金が増える設計 → 途中で辞めると損
- 「転職市場の未成熟(改善中)」:特に中高年の転職市場は、スキルよりも年齢で評価されてきた(2020年代に変化しつつあるが)
- 「転職 = 根性なし・問題あり」という偏見:特に40〜50代以上の世代に残る「転職への偏見」
日本の低離職率は「満足度の高さ」ではなく「辞めにくさ」から来ている側面が大きい——これが「離職率の嘘」の本質です。
「人材の流動性が低い」社会のコスト——日本経済への影響
人材が会社を自由に動けない(流動性が低い)社会は、経済全体にどのようなコストをもたらすか。
資源配分の非効率
「本来最も価値を発揮できる場所にいない人材」が大量に存在することになります。A社では「余剰で低生産性」な従業員が、B社では「希少で高生産性」になれるかもしれない。しかし転職市場が機能しなければ、この最適配分が起きません。
イノベーションの抑制
新しい産業・企業に「優秀な人材が流れ込む」ことがイノベーションの源泉です。人材が既存企業に固定されると、新しい産業への人材供給が滞り、産業構造の転換が遅れます。
賃金上昇の抑制
「転職市場で賃金が競われる」ことが賃金上昇の基本メカニズムです。人材の流動性が低いと、企業が「他社より高い賃金を提示する」インセンティブが弱まります。「日本の賃金が30年間ほぼ増えなかった」原因の一つが、人材流動性の低さです。
「人材流動性の高い社会」への転換——2020年代の変化
2020年代に入り、日本の転職市場は急速に変化しています。
転職者数の急増
リクルートのデータによると、2022〜2024年にかけて転職者数(年間300万人超)は過去最高水準を更新。「転職は当たり前」という認識が特に30代以下に浸透。
中途採用の拡大
大手企業・外資系企業が「新卒一括採用」に加えて「通年中途採用」を拡大。「中途採用 = 即戦力採用」という認識が定着しつつある。
専門職の市場価値向上
エンジニア・データサイエンティスト・CFO・CMO等の「専門職人材」の市場価値が急上昇。同じスキルでも「会社にいる」より「転職市場に出る」ことで年収が増えるケースが増えている。
「高い離職率」が「強い組織」の証明になるケース
「離職率が高い = 問題がある」という常識を覆す事例が増えています。
高離職率が「健全さの証明」になるケース:
- コンサルティングファーム・外資系金融:「Up or Out(昇進か退職か)」の文化。一定年次で昇進できない場合は退職が促される。高離職率だが、組織全体の質は高い
- スポーツチーム的な組織:「今の目標に最適なメンバー」を維持するために、フィットしなくなったメンバーは積極的に入れ替える
- 急成長スタートアップ:組織のフェーズ変化(0→1フェーズから1→100フェーズへ)で必要な人材が変わり、メンバーの入れ替えが必然的に起きる
まとめ——「離職率の数字」より「なぜ辞め・なぜ残るか」を問う
「離職率が高い=問題」「低い=良い」という単純な二値判断を捨て、「誰が・なぜ・どこへ」という質的な分析に移行することが重要です。
個人として取るべき視点:
- 「離職率が低い会社だから安心」という思考をやめる。転職市場での自分の価値を定期的に確認する
- 「今の会社に残り続けることのコスト(機会費用)」を意識する
- 「転職を考えるのは不義理」という感覚を捨て、「自分の市場価値を最大化する場所を常に探す」という意識を持つ
企業として取るべき視点:
- 離職率を下げることより「辞めてほしくない人が辞める率を下げる」ことに注力する
- 「辞めやすい環境(辞めても損しない制度設計)」を作ることが、逆に「優秀な人材が残りたいと思う組織」につながる
人材の流動性は「経済全体の生産性向上」と「個人の成長・豊かさ」を同時に促進するエンジンです。「離職率の嘘」を見抜き、流動性の時代に適応した考え方を持つことが求められています。
「転職市場」での「離職率・在籍期間」の正しい読み方
転職活動をする際、「この会社は離職率が高い・低い」という情報をどう評価すればいいか。転職を考えている人・採用する側の企業担当者、それぞれの視点から整理します。
転職者が「離職率」を見る際の注意点
- OpenWorkやGooシゴト等の転職口コミサイトに記載された「離職率」は、退職した人が口コミを書く傾向があるため、ネガティブバイアスがかかっている可能性
- 「離職率」の定義が会社によって異なる(定年退職・契約終了・自己都合退職を全部含むか)
- 「業界の平均離職率」との比較が重要。飲食業・介護業界は構造的に高い離職率。IT・コンサルは意図的に高い離職率設計の場合もある
採用側が「候補者の在籍期間」を見る際の注意点
- 「短い在籍期間(1〜2年で転職)」を「忍耐力がない・問題がある人物」と判断するのは時代錯誤
- 「なぜ辞めたか」「次にどう活かしたか」というストーリーの方が重要
- 「同じ会社に10年いた」という事実が「高い能力」を意味しなくなっている
「雇用の流動化」が加速する制度的背景
2020年代の日本で人材流動性が高まっている背景には、制度的な変化もあります。
「解雇規制の緩和」議論
日本の「解雇規制(整理解雇の4要件)」は極めて厳しく、「正社員を経営上の理由で解雇することが難しい」という設計です。この規制が「正社員の採用・雇用維持」を慎重にさせてきました。
2024〜2025年にかけて「ジョブ型雇用・解雇規制の見直し」が政策議題になっています。岸田政権・石破政権下での「労働市場改革」として、「成長分野への労働力の移動を促す」という目的での制度改革が検討されています。
解雇規制緩和の影響(予測):
- 企業が「合わない人材を解雇しやすくなる」 → 採用ハードルが下がり、新規雇用が増える可能性
- 「クビにならない」という安心感が薄れる → 従業員の「自分の市場価値を高める」意識が強まる
- 「転職市場の流動化」がさらに加速する
「副業解禁」の流れ
2018年の政府ガイドライン改訂以降、企業の副業解禁が進んでいます。副業・兼業の普及は「本業以外の収入源・スキルの場」を持つことを当たり前にしています。「副業 → 本業化」「副業先に転職」という新しいキャリアパスが生まれています。
「人材流動性の高い産業」で働くことの意味——キャリアへのインプリケーション
人材流動性が高い産業(ITエンジニア・コンサルタント・金融・外資系等)に属していることは、現代では「リスク」ではなく「機会」です。
人材流動性の高い産業で働くメリット:
- 市場価値の「見える化」:定期的に転職市場に自分を出すことで、「自分のスキルが今どれくらいの価値があるか」を確認できる
- 「賃金交渉力の維持」:「他社に行けば年収が上がる」という選択肢があることが、現職での賃上げ交渉を強くする
- 「多様な経験の蓄積」:複数の会社・プロジェクトを経験することで、「一つの会社では得られない視野・スキル」が身につく
「キャリア自律」という新しい概念——「会社に頼らない」キャリア設計
「離職率の嘘」が意味するのは、「離職率という指標より、自分が主体的にキャリアを設計しているか」が重要だということです。
「キャリア自律」とは:
- 「会社が用意してくれるキャリアパス」を受動的に歩むのではなく
- 「自分の市場価値・目指すキャリア・そのためのスキル・経験の積み方」を自分で設計する
- 「会社・職場・仕事の選択」を「自分のキャリア戦略」から逆算して決める
キャリア自律のために必要なアクション:
- 年1回、転職エージェントとの面談で「自分の現在の市場価値」を確認する
- 「今の仕事で得られるスキル・経験が5年後に自分の市場価値を高めるか」を常に考える
- 「転職するしないに関わらず、転職できる準備を常にする」
まとめ——「離職率」に惑わされない、自律的なキャリア設計
「離職率が低い会社は良い会社」「長く勤めることが美徳」という常識は、現代の雇用市場では部分的にしか真実ではありません。
本当に重要なのは:
- 「なぜ辞めるか・なぜ残るか」という質的な判断
- 「自分の市場価値が高まっているか」という成長の視点
- 「転職可能な状態(エンプロイアビリティ)を維持しながら、今の仕事に集中する」という姿勢
「離職率の嘘」を見抜いた先に、「自分のキャリアを自分で選ぶ」という真の自由があります。人材流動性の時代は、それを実践できる人にとって「最高の機会の時代」です。
著者
岸 泰裕(きし やすひろ)
早稲田大学大学院金融工学MBA取得。元外資系バンカー。財務・IR・ガバナンス・ESG専門。著書3冊、累計調達額480億円、明治大学リバティアカデミー講師(2014年〜)。