岸泰裕です。
スーパーのレジで思わず財布を握りしめた経験が、あなたにもあるはずです。
「また値上がりした」「去年まで198円だったのに、なぜ今は298円なのか」。
メディアは「物価高対策」「賃上げ元年」「デフレ脱却」と賑やかに騒ぎ立て、政府は給付金やポイント還元を乱発します。
しかし、私は金融の実務と学術の両面から、この「なんとなく苦しい感覚」の正体を冷静に解剖してきました。
今回は、多くのサラリーマンが気づいていない「実質賃金という罠」の構造と、円という通貨そのものが持つリスクを、財務プロの視点で徹底的に語ります。
1. 「賃上げ」は、あなたの生活を豊かにしていない
春闘の結果が出るたびに、テレビは「30年ぶりの大幅賃上げ!」と興奮気味に報じます。
しかし冷静に考えてください。あなたの手取りは、本当に増えましたか?
ここに財務の基本中の基本があります。名目(額面)と実質(購買力)の違いです。
月給が3万円上がっても、食料品・光熱費・保険料が合計で年間50万円以上増えていれば、あなたは数字の上では「豊かになった」ように見えて、実際には去年より貧しくなっています。
厚生労働省が発表する「実質賃金」が何ヶ月もマイナスを続けているという事実は、まさにこの構造を示しています。
さらに残酷なのは、税・社会保険料の「ステルス増税」です。
名目給与が上がれば累進課税の影響で所得税が増え、社会保険料の算定基礎も上がります。
表面上の「賃上げ」の恩恵の相当部分が、政府と社会保障制度に静かに吸い取られる仕組みになっているのです。
経営者が「賃上げを実施しました」と胸を張るとき、CFOは内心でこう計算しています。
「インフレ率を下回る賃上げを実施すれば、実質的な人件費は目減りする。これは合法的なコスト削減だ」と。
2. 「円安は輸出企業に有利」という呪文が、国民を貧困化させてきた
長年、日本の経済政策の中枢には「円安は国益だ」という教義が根強く存在してきました。
確かに、トヨタやソニーのような輸出大企業にとって、円安は為替差益として決算を直撃し、株価を押し上げます。
しかし、あなたが食べているサーモンはノルウェー産で、飲んでいるコーヒーはブラジル産で、着ているTシャツはバングラデシュ産です。
エネルギーは中東産で、小麦はアメリカ・カナダ産です。
円安とは、輸入に頼って生活しているあなたの購買力を、輸出企業の利益のために差し出す行為に他なりません。
総合商社や外資系金融機関での経験から言わせてもらえば、為替ヘッジを巧みに活用して円安リスクをコントロールできるのは、大企業だけです。
零細企業や個人事業主、そして毎月の給料で生活している普通のサラリーマンは、円安の恩恵にはほぼ与れず、輸入インフレのコストだけを一方的に被ります。
これはもはや、経済政策の失敗ではなく、「誰の利益のための政策か」という設計思想の問題です。
3. 日銀という「最後の錬金術師」の限界
かつて黒田総裁が導入した異次元緩和(YCC・マイナス金利)は、一言で言えば「日本円を大量に刷って国債を買い続けることで、金利を人為的にゼロに張り付ける」という壮大な実験でした。
この政策の本質は何だったか。
政府が借金(国債)を膨らませ続けるための「コストゼロ化」です。
金利がゼロであれば、どれだけ借金が増えても利払い費は増えない。
財政規律という概念を、金融政策で事実上無効化する試みでした。
しかし、市場はいつでも最終的に本質を見抜きます。
世界中の投資家が日本国債を売り始め、日銀が「指値オペ(無制限の国債買い入れ)」で防衛線を張らざるを得ない場面が繰り返されたことは、財務の世界では「ソブリン(国家)の信認が試された瞬間」として記憶されています。
上田体制に移行して政策修正は進みましたが、すでに膨らんだバランスシートと財政赤字という「負の遺産」を正常化するコストは、これから長い年月をかけて国民が静かに支払い続けることになります。
誰も「払え」とは言いません。ただ、あなたの実質的な購買力が、じわじわと目減りしていくだけです。
4. 「貯蓄から投資へ」スローガンの裏に潜む、国家の思惑
岸田政権以降、「新NISA」「資産運用立国」というスローガンが喧伝されています。
「眠っている個人金融資産2,100兆円を投資に回せ」という政策です。
これは一見、国民の資産形成を応援する美談のように聞こえます。
しかし、財務の構造論で考えると、もう一つの側面が見えてきます。
日本の個人金融資産の半分以上は「現預金」です。
この巨大な円建て資産が株式や投資信託(特に海外資産)に移行すれば、外貨建て資産への需要が高まり、円安圧力が構造的に続くことになります。
国民が自ら「円を売って外貨を買う」行動を促進することで、輸出企業に有利な円安環境を維持しようという、政策と産業界の利益の一致を見て取れます。
もちろん、長期分散投資そのものは合理的な資産形成の手段です。
私自身、著書でも米国株やインデックス投資の有効性を論じてきました。
ただ、「政府が勧めているから正しい」という思考停止は危険です。
政策の「受益者は誰か(Who benefits?)」を常に問い続ける習慣が、本物の金融リテラシーの核心です。
結論:「日本円で貯蓄を持つリスク」を直視せよ
「物価が上がっている」「給料が増えても楽にならない」「老後が不安だ」。
これらはすべて、繋がっています。
日本円という通貨の購買力が長期的に低下するリスク。財政赤字が解消されない構造的問題。そして少子高齢化による税・社会保障負担の増大。
この三つが同時進行している現在、「円で貯金しておけば安心」という昭和的な常識は、最も危険な幻想の一つになりつつあります。
円安・インフレの時代を生き抜くためにできることは何か。外貨建て資産・実物資産への分散、スキルという「自分自身への投資」、そして何よりも「数字を正確に読む力」の習得です。
政府の美しいスローガンや、メディアの楽観論に踊らされる前に、一度立ち止まって構造を見なさい。
経済の本質は常に「誰かの利益のために、誰かがコストを負担している」というゼロサムゲームの側面を持っています。
あなたが「コストを負担させられる側」にいるのか、「利益を享受できる側」にいるのかを、冷静に見極めることが、これからの時代を生き延びる最低限の知性です。